4月.エイプリルフール
「おお、あるもんやなぁ」
嶋本はスーパーで目当てのものを見つけて独りごちた。イースト菌なんて、パンを焼く他に使い方が全く思い浮かばないものがスーパーに鎮座していることに驚いた。しかし意外に自宅でパンを焼く人は多いのかもしれない。ホームベーカリーも普及してきたし。
考えつつ野菜コーナーへ移動する。インスタントドライイーストを見つけられなかったらパンを焼くのは良そうと考えていたため、野菜コーナーを素通りしていた。パプリカとカボチャとブラックオリーブを籠に入れて、セルフィーユはいっかと棚に戻した。だって、気持ち程度上に乗せるだけだから。そんなもの、残ってしまったらあとは腐らせてしまうだけだ。
次は調味料コーナーで岩塩、反対側の他の粉類がまとめられたコーナーから強力粉を籠に入れた。
忘れてはいけない、クッキングシートを籠に入れて。「しゃあないけど、ほとんどやな」と再び独り言ちた。
仕方ない。家で一人で一からパンを焼くのはこれが始めてた。
先日、ホームベーカリーの便利さに「買おかな」と言うと、友人に「パン作りの何が楽しいって、こねるのが一番楽しいのにそれを機械にやらせるなんて馬鹿だ!」と力説され、「次開いてるのはいつだ!」と予定を確認され、あれよあれよとパン作り教室が開催された。
そして、確かに、こねるのが楽しかった。到底混ざりそうにないバターが徐々に混ざり、しかしバターでベチャベチャになって台にくっついてしまうようなとても生地とは呼べないようなものに一度なり、それを辛抱強くこね続けると、驚くほどまとまり、台にも全くくっつかなくなり、立派な生地になるのだ。こね方も『縦ごね』『V字ごね』『たたきごね』と3種類あり、『たたきごね』がその名の通り「それ’こねる’って言わないよね?」と言うようなこね方、というよりまさに台に叩き付けていて面白かった。
だから、ホームベーカリーは買わないことにした。
パンは、計量と生地の見極めが命だ。ホームベーカリーに頼らないため、生地の見極めがひどく心配な嶋本であったが、初めての一人でのパン作りは成功した。
しかし、一つ失敗したのが、失敗することを想定してレシピの倍の量の材料を買ってきてしまったこと。パプリカも強力粉も、普段使わないアイテムだ。
どうしようか。
悩んだ挙句、嶋本は職場に差し入れることにした。焼きたてが美味しいため、焼くだけの状態にして持参した。これまで必要ないと思っていたレンジのオーブン機能がようやく役立つ日が来た。
「13分くらいで焼けるんで、食べたい人早いもん勝ちでどうぞ。天板熱いから出すとき気を付けて」
言い残して、嶋本は別で昼食を済ませ、仮眠室にこもった。慣れないことをすると酷く疲れる。そして疲れが残る。真昼間ではあるが、嶋本は仮眠を取った。
そして、休憩時間終了5分前、嶋本はもそりと布団から抜け出して、そしてすぐに異変に気付いた。どうも空気が落ち着かない。
事務所へ戻ると、佐々木が困り顔で嶋本を見た。
「真田さんが、問題ないと言い張ってきかないんです」
言われてロボットに視線を移すと、口をもぐもぐと動かしている。
「え、真田さん、何してるんすか?」
「パンを食べている」
答えるロボットの口からは、ぽろぽろと細かくなったパンが零れる。
ロボットには飲食する機能は付いていない。そのため、このロボットには唾液なんてものはないし、飲み込むことも、咀嚼しながら口の中の物をこぼさずに話すこともできない。
「食べれてます?」
「食べている」
ロボットはいつものように大まじめな顔で答えた。
「質問を間違えました。口の中に入れて、噛んでるだけじゃないんですか? 飲み込んで、消化できていますか?」
「確かに、これは噛んでいるだけだ」
「真田さんが今やっているのはね、強いて言うなら、パンを細かく刻むという行為です」
「そうか」
「はい」
しかしロボットは咀嚼を続ける。
「真田さん、出してください」
「何を」
「口の中の物」
「問題ない」
「問題あるから言うてんです」
「どんな問題だ」
聞かれて、嶋本は困ってしまった。飲み込むことが出来ないことは確認できている。口腔内に異物が大量に入ったところで話すことに差支えないことは今まさに証明されている。パンを咀嚼し続けることは、ロボットに物理的な被害を与えない。
「えっと……。そうだ。もう休憩時間も終わりです。いつまでも食べてるわけにはいきません」
「休憩時間が終われば出す」
まるで子供のダダだ。嶋本は手近の屑箱を持つと、ロボットの手をとりエプロンに出た。
嶋本はロボットの頭を屑箱に押し付けて言った。
「出せ」
「いやだ」
「出せ」
「いやだ」
「出してください」
「いやだと言っている」
「なんでそんなに嫌なんですか」
「嶋本が焼いたパンだからだ」
「……」
嶋本の、頭を押さえつける力が抜けて、ロボットが前を向いた。
それを見て、嶋本は口を大きく開けてそして人差し指で指示した。
「あー」
解釈できたロボットが真似をする。
「あー」
「よし。もうありませんね」
ロボットは咀嚼中に話すだけでぽろぽろと中の物を零す。ならば、下を向かせて口を開かせれば、すぐに全部零れると嶋本はふんだ。そして、予想通りだった。屑箱には無数のパンくずと、みじん切りになったカボチャ、パプリカ、オリーブが入っている。
「飲み食いできひんでしょう。何やってんですか」
「できる。食べられるようになった」
「できてへんからこんなことになってんでしょうが」
「でも、一之宮さんに言われた。お前は飲み食い出来るようになったから、飲み会にも来いと」
「はあ? てか、いつ一之宮さんに会ったんですか。5隊とはずっとすれ違いでしょう」
「メンテナンスから戻った時だ」
最近はメンテナンスに出していない。最後にメンテナンスに出したのはいつだったか、嶋本は必死に考えて、思い出した。三月下旬に出して、戻ってきたのは四月に入ってからのはずだ。
「四月最初の方?」
にそんなこともあったかな、と呟いた嶋本に、ロボットが付け足した。
「一日だ。四月一日」
でもなんで一之宮さんはわざわざそんな嘘をついたのだろうと思い至って、その答えは次の瞬間に見つけた。
「エイプリルフールですよ!」
「エイプリルフール」
「嘘ついてええ日!」
「嘘だったのか」
ロボットは僅かに残念そうな声を出した。ロボットには、人間の命令が全てで、人間からインプットされることが全て真実だ。
心を、人格形成をプログラムできないのだから、嘘をつかれることを前提としたプログラムなんて、‘疑う‘なんてプログラム、できるはずがない。
疑うことのできないロボットは、エイプリルフールだろうが、教えられたことは全て真実としてインプットした。
「でも、なんで突然食べようと思ったんです? これまで何も食べてきてへんやないですか」
「嶋本が焼いたパンだからだ」
「はあ?」
「皆が柔らかくて美味しいと言って食べていた」
「そんなん、これまでも他のもそうでしょう」
「嶋本が作ったものを、俺も美味しいと感じられる。そうなれたと気付いて、嬉しかった。嶋本が焼いたパンだから、食べたかった。最初に食べるものは、嶋本が作ったものが良いと思った」
まっすぐに言うロボットを、嶋本は直視できなかった。
データが2回目に初期化してからしばらく経つが、ロボットがこんなにも感情を露わにしたのは初めてだった。
「……美味しかったですか?」
「……」
ロボットは答えられなかった。当然だ。味なんてわからないのだから。その表情が、嶋本にはとても悲しそうに見えて。
「残念ですね。食べられへんくて」
「うん。食べられたらいいのに」
「そうですね」
「嶋本と、色んなものを食べて、感想を言い合える日が来たと思ったのに」
「それは楽しそうや」
「色んなものを食べるとなると、色んなところに行くことになる。それが楽しみだったのに」
「それもええですねぇ」
「そしたら、嶋本といる時間が増えて、楽しい時間が増えるのだろうと。嶋本の笑顔をこれからたくさん見られるのだろうと、思ったのに」
「それはそれは……」
「いろいろな嶋本を見て、どんどん嶋本を好きになるのだろうと、思ったんだ」
「……」
「嶋本のことが好きだから、嶋本の焼いた柔らかいパンならば食べたかった」
「……ありがとうございます」
嶋本は、精一杯の笑顔を見せてから、ロボットを強制終了させた。
今回のメンテナンスは時間がかかりそうだ。なんせ、四月一日以降に上書き保存され保護されたデータを全て戻す、つまり、三月三十一日以前のデータを復元してもらわなければならない。
嶋本は、ロボットを担いで事務所へ戻った。皆、できもしない飲食をしたせいで故障したと思い込んでいる様子だ。それはそれで良い薬になる。
嶋本は、ロボットに嘘をつかないことを徹底させた。
今回の件で、一之宮は始末書を書くはめになったが、それも良い薬だとして、嶋本は誰にもロボットに人格が形成されていた事実を話すことはしなかった。
