信じたくもない事実を目の当たりにして
 手を伸ばすことさえ叶わなくて
 現実を突きつけられて
 手を差し伸べるなんて許されなくて。
 唇を噛み締めて
 目を離せるはずもなく
 ただそこに立ち尽くして



  Floods of tears



 要救助者と神林の救助に行ったはずの真田が、海から上がって来なかった。
 神林が、真田はエンジンルームで意識を失っていると言った。
 しかし肝心の船は、船体の半分以上が浸水し、波に揉まれ、流れに捕まり、最大深度50メートルの海へと、海を仕事場にする者でさえ恐れる渦へと、

 渦へと──


 船が渦に飲み込まれるのは時間の問題だった。しかし嶋本にはその様子が、まるで時間の進み方が遅くなったかのように、スローモーションに見えた。浸水している船の揺れと、波の波長との微妙なズレまではっきり視認できる程に、嶋本の中での時間の進み方が遅くなった。そして真っ先に、真田に対しての憎悪が湧き上がってきた。

 そんな所で、何してるんすか。

 しかし我を忘れることは無かった。どこかおかしなくらいに、今の自分というものを自覚できていた。これまでに無い程に、集中していた。周囲の音も聞こえないくらいに集中していた。海や天候の状況と、自分のいる支援艇と、真田が取り残された船と、その先の渦しか目に入らない程に、今という瞬間に、今の状況に、集中していた。
 そして、憎悪を覚えた自分が不思議になった。今はそんな場合とちゃうやんか、と自分をなだめる。しかし憎悪を拭い去れなかった。その理由も、次の瞬間にはわかった。
 嶋本が真田の下で働いて、真っ先に嫌というほど学んだことが、自分の命は自分で守るということだったからだ。せやのに、何自分が危なくなってんですか、と思わずにはいられなかった。

 ああ……。こんな時間、さっさと過ぎてまえばええのに。

 ふとそんなことを思って、そのためには、この状況から早く脱するしかないと考えた。
 状況を整理する。
 船が渦に飲まれる前に、船にたどり着くことはできるだろう。しかし、渦に飲まれる前に救助を終えられるか。それは、有り得ない。
 では、渦に飲まれても船から一緒に脱出できるか。それはもっと有り得ない。おそらく、船内は悲惨な状態になり、方向感覚を失って、自分がどういう状態にあるのかさえ把握できなくなって、身動きすらできないような状況になるだろう。
 では、沈んでしまってからの救助は可能か。この海は最大深度50メートル。特救隊に救助可能なのは、深度40メートル。沈んでしまってからの救助は、不可能。
 救助には、行けない。
 出動した者は必ず生きて帰ってくること。その特救隊の誓約を全うするのだ。特救隊全員に誓約を全うさせるために、自分を守る。自分の命を自分で守るためじゃない。隊員を守るために、自分を守るのだ。
 部下を残して死んでいくなんて、そんな無様で情けない真似、できないと思った。
 自分の部下は、自分で守る。そのためには、救助には行かない。

 うん、それでいい。

 真田を助けられないことに対する恐怖は、一切無かった。自分でも、やけに落ち着いているなと思った。周りの音が聴こえない分、自分の鼓動まではっきり聴こえる。
 ドクン、ドクンと、全身が脈打ってる様な感覚にさえ陥った。
 いや、全身が脈打っていた。途端に、これは集中しているのではないと気付く。
 真田を亡くすであろう現実から、逃げているだけだ。

 出動したら、必ず生きて帰るって約束したやんか……。

 だからこそ今まで、共に出動できた。そんな嶋本に、真田がいないなんて考えられなかった。真田が死ぬだなんて考えられなかった。真田が死んでしまったら、自分はどうなってしまうのだろう、とそんな恐怖を覚えていた。


 ──しっかし、うるさいやっちゃな。

「俺案内しますから! 早く真田さんを助けに行きましょう!!」
 できてたら、とっくにやってるっちゅうねん。
「我々は、出動しない」
「え!? 何言ってんですか? こんな時に‥‥!! 目の前の隊長を見捨てるんですか!! トッキューなんでしょ!?」

 時間の進み方が、急に元に戻った。
 船が、刻々と渦へ引きずられていく。
 ヘリの音が、支援艇のエンジンの音が、海の音が、雨の音が、風の音が、そして何より、神林の声が、脳内にガンガンと響き渡る。不愉快だ。見えるもの、聴こえる音、全てが不愉快だ。
 いらいらした。
 嶋本とて、助けたいのは山々なのだ。いや、嶋本が一番、真田が助かることを望んでいる。今すぐ海に飛び込みたいと思っている。
 こんな時でなければいいのにと思った。特救隊のウェットスーツなんか着ていなければいいのにと思った。嶋本進次一個人でありたかった。こんな、背中に特救隊を背負ったウェットスーツなんて、脱ぎ捨てたいと思った。しかし、真田がそれを許さないことなど、容易に想像ができた。
 新人風情が、と思った。どんな思いで判断したかも知らないくせに、と。

 トッキューやから、何や。トッキューにかて無理なこと、あるねん。助けたいのは同じやねん。誰よりも俺が、助けたいねんぞ……!!

 高嶺がそっと、嶋本の肩に手を置いた。張り詰めていた想いが、ふっと楽になる。
 高嶺はそのまま、うるさい神林に出動しない理由を話した。嶋本も、念を押すように続けて言った。
「俺はあそこから、他人を救出する術なんて知らんぞ」
 それなのにお前に助けられるはずがないだろう、と。

 しかし神林は、海へと飛び込んで行った。
 間もなく船は、渦へと飲み込まれた。

 直後、潮止まりが始まった。
 船が沈んだ場所はぎりぎり水深40メートル未満で、岩だらけの海底の中でそこだけが砂地だった。



 信じられない現実を目の当たりにして
 手を伸ばす理由ができて
 事実を把握して
 手を差し伸べるべき時が来て。
 名前を呼んで
 何度も名前を呼んで
 やっとの言葉に涙して

 あなたがいる、真実



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