キス
キスをされた。
右手の甲に。
跪かれて。
うやうやしく、手を取られて。
眩しそうに細められた瞳。
口角はいつもより上がって。
嬉しそうな、照れているようにも見える、優しい笑顔で。
格式ばった、だけど、心からの。透き通った、宝石のような言葉が紡がれた。
答えなくては。
考えていたら、けたたましい音が鳴り響いた。
跳ね起きて、目覚まし時計を止める。
夢か。
なんて夢だったのだろう。
夢で良かったような、覚めてほしくなかったような。
右手を眺めると、握られた手、触れた唇、その感触を、いやにリアルに思い出した。
言葉を返したら、次はどうなったのだろうか。やっぱり、気になる。
しかし二度寝するわけにもいかない。
右手の甲を隠すように左手をバシンと重ね
「乙女か!」
ツッコミを入れてから、嶋本はようやく動き出した。
「おはようございます!」
いつも通りに出勤して、己の声に頭が悲鳴をあげて嶋本は二日酔いを自覚した。思い起こせば、昨日訓練の後で飲みに行ってからの記憶がない。
「おはよう」
先に来ていた真田が答える。
「大丈夫か?」
「? 何がですか?」
頭は悲鳴をあげたが、その素振りを微塵も見せなかった自負のある嶋本は、二日酔いのことはさておいて別の何かを考えた。しかし、全く心当たりがない。
首をひねる嶋本に、大丈夫そうだなと、真田はひとつ頷いてその場を離れた。
今日のロボは何かがおかしいかもしれない。嶋本はひとまずそう頭の隅にメモをした。
訓練が始まって、嶋本の真田への違和感は次第に確信へと変わっていった。「無理はするな」「大丈夫か」普段から普通にこなしていること、激を飛ばされるようなことで、真田がそう声をかけてくる。
そして、午後の訓練も半分過ぎたあたりで嶋本は気付いた。腕を使う場面で声をかけられる。
「ほんま、大丈夫ですよ。ほら」
訓練が一区切りつくと、嶋本は真田の目の前で腕のストレッチをして見せた。しかし真田は渋い表情をして、嶋本の手首を掴んだ。嶋本は少々驚いたが、されるがままにすることで問題ないことを確認してもらえるのではないかと考えた。
「ね? 腕ならなんともないです」
しかし真田の表情は変わらない。それどころか、眉根を寄せて眉間に一筋の溝が出来た。
「腕じゃない」
答えた真田は、手首から手の甲へと掴む手をずらした。
親指で一撫でする。
その感触で、昨夜の夢がフラッシュバックして、嶋本は慌てて手を引き抜いた。
「だいじょぶですって、ほらっ」
グーパーして見せて、「ね?」と念押しをする。
納得のいかない様子で、しかし真田は、ふむと頷いた。
なんなのだ、一体。嶋本は騒ぎだした心臓を、火照りだしそうな頬を、なんとか落ち着かせるべく、こっそりと深呼吸をした。
結局いまいち落ち着かないまま訓練を続行して、ようやく帰り支度の時間になった。ロッカーで、隊服を脱ぐべく首元にやった手を真田に取られる。
手の甲をやはり親指で撫でられる。
なぜよりによって気にする場所がそこなのか。なぜそこに触れてくるのか。夢の中で、唇で触れられた場所だ。なぜそこを気にするのか。
慌てて振り払った結果、ロッカーにしたたかに手をぶつけた。大きな音に皆の注目が集まってしまって、嶋本は血の気の引く思いがした。こんな中で動揺の言い訳をしなければならないのか。どうしよう、と脳をフル回転させたところで、助け舟が出た。
「見せて下さい」
差し出された高嶺の手に、嶋本は大人しく自分の右手を差し出した、
「平気やで」
高嶺は手の甲と手のひらと指をそれぞれ確認した後、
「うん。大丈夫です」
と言って、
「何の問題もありません」
とは、真田に向けて言った。
「そうか」
答えた真田がなんだか寂しそうにしていて。
二度とこんな顔をさせてしまわぬよう、変に動揺して心配かけてしまわぬよう、自分の気持ちなど忘れてしまおう。
嶋本はそう心に決めた。
片膝立ちで、声をかける。
いつもは眼下にある強い瞳が、まんまるに見開かれてこちらを捉えた。
手を差し出す。
だけど、答えてはもらえなくて。
少し強引に手を取った。
口づけをする。
しかし叶わずに振りほどかれた。
怒声に顔を上げれば、眉が、いつも以上に吊り上がっていた。
目覚ましの音で覚醒する。
夢で良かった。
一昨日も昨日も失敗した真田は、心からそう思った。
三度目の失敗なんてあってはならない。
一昨日、飲み会も終わり解散という頃、斜め前に立つ嶋本が何やら大きく手を振り払った。
真田にはその手が顔面にぶつかることは予測できたし、避ける判断もできたし、きっと避けられた。しかし避けなかった。手が近づいてくるにつれ、ちょうど口にぶつかる、そんな予測ができてしまったからだ。
そして、ぶつかった。
ヒトの腕の可動域、ななめ後ろという位置が幸いして、威力は大分小さかった。
「大丈夫か!」
黒岩が慌てて真田に駆け寄る。
「大丈夫です」
「見せろ」
真田は無意識のうちに口元を手で覆っていた。本当に威力は小さかった。だから何ともない。心配をかけてはいけない。真田は大人しく手を外した。
「……ああ、大丈夫そうだな」
確認した黒岩は、次は嶋本をどついた。そして何やら口論のようなものが始まる。嶋本は大分酔っぱらっていて、わがままをわめきちらしている。眺めていたら、嶋本がキッと真田を睨んだ。
「お前避けろや! なんで俺がどつかれんねん!」
その発言で、嶋本はまた黒岩にどつかれた。
嶋本には可愛そうなことをしてしまった。そんな風には思うものの、真田には唇に残る感触の方が大きかった。
そして翌日。起きるなり、やはり嶋本には悪いことをしてしまったと、真田は後悔の念に苛まれた。
威力は小さかったとはいえ、嶋本の手は大丈夫なのだろうか。唇の奥は歯だ。口を開けるなんて失態はしなかったが、どうだろう。
朝一で確認をする。しかし嶋本は酔っぱらっていたからだろう、記憶がないようだった。
記憶がないとなれば、痛みが無い限り嶋本は普段通りに過ごしてしまう。骨はヒビが入った程度では痛まないこともある。本当に大丈夫なら良い。訓練中に何も起きなければ良い。
そんな心配が拭えなくて。執拗に声をかけてしまったらしい。ついに嶋本の方から「腕ならなんともないです」と言われた。
心配していることが伝わってしまった真田は開き直った。手の甲を確認する。しかし、驚いたようにその手を引っ込められてしまって、真田には何がなんだかわからなかった。
昨晩の記憶がないはずの嶋本が、なぜこんな反応を示すのだ。本当は覚えているのか? いや、嶋本は嘘を付かない。ならば、なぜだ。本当はわずかでも痛みがあるのだろうか。嶋本は嘘は付かないが、隠し事はするのだ。
その場はそれで終わらせた真田であったが、痛みがある可能性があるのでは放っておけない。帰りのロッカーでもう一度確認した。
そして、手の甲に触れた瞬間、思い切り振り払われてしまった。
ロッカーに嶋本の手がぶつかり、ガンと大きな音が響いた。その音で高嶺が駆け付け嶋本の手を診てくれた。
大丈夫だった。嶋本の手に異常はなかった。
ならばなぜ、嶋本は手を見せてくれないのか。触れられることが嫌なのか。
真田にはそれしか考えられなかった。
そうであれば、手の甲に触れた時だけ反応が大きいことにも合点がいく。昨晩の出来事を。手の甲に自分の唇が触れて不快だったことを、潜在意識が覚えているのだ。
汚い計算をして、触れようとなんてしてはいけない。
今より嫌われるわけにはいかない。
もう、嶋本には触れない。
真田はそう心に決めた。
(おわり)
