高校生 17

 

 テーブルにジュースとお菓子を置いたところで、嶋本はようやく本から顔を上げた。
「あ……。真田か」
 嶋本は驚いたような浮かない顔になった。だけど、前みたいな迷惑そうな顔ではない。俺は構わずに話しかけた。
「嶋本、学校は楽しいか」
「んだよ、センコーかよ」
 面倒そうに答えながら、だけど嶋本は体を起こした。
「俺は、こんなはずじゃなかったと、そればかり思う」
「……」
「嶋本と、楽しい学校生活を送れるものだと思っていたんだ」
 この言葉に、嶋本は力なく笑った。
「考えが甘かったんだよ。悪いのはクソセンだけじゃなかったんだ」
「そんなはずない」
「じゃあなんで今こんななんだよ。原因を排除しても改善されないことなんてあるのかよ」
「……」
 ないはずだ。ないと信じたい。でもそうすると、他にも原因があることになってしまう。その原因は自分にあるのだと、嶋本は言い出しそうな気がする。
「お前さ、こんな不良放っとけよ」
「嶋本は不良じゃない」
「そう思ってるのはごく少数だ」
「だとしても、それは嶋本を放っておく理由にはならない」
「なるんだよ!」
 嶋本がもどかしそうに声を荒げた。
「もう高3だろ。今年受験だろうが。不良で有名な俺とつるんでみろ。内申何書かれるかわかったもんじゃねぇぞ」
 高3。内申。
 合点がいった。
 嶋本は2年の時は担任のせいでクラスにいられなかっただけで、生徒たちから避けられてはいなかった。それが、原因が排除されたにも関わらず3年になった途端クラスに馴染めなくなった。
 それは、受験の年に、普通クラスから特進クラスに上がったからだ。
 大学に進学したくて猛勉強している生徒たちのクラスだ。しかも、ほとんどの生徒が、嶋本が優しい人物であることを知らない。大学進学に執念を燃やす神経質な生徒に、不良のレッテルを貼られた得体のしれない人物を受け入れることなど出来るはずがなかった。
 だからクラスに馴染めないし、察した嶋本は自ら馴染もうともしない。
 でも、こんなの、期待した未来じゃないはずだ。
「内申なんてどうでもいい。嶋本、俺は、嶋本が楽しそうじゃないのが嫌だ。嶋本と一緒にいられないのが嫌だ」
 この言葉に嶋本は僅かに目を見開いて、そして、
「……好きだねぇ」
 呆れたように呟いた。
 うっかりしたら簡単にころころと転がり落ちそうなその声は、だけどしっかりと、俺の中に着地した。
「え、」
 動揺を隠せない俺を見て、嶋本はにやりと微笑んだ。
「俺のこと」
「あ、うん……」
 嶋本の細い眉がいつもより下がって、優しくて。
 見上げる瞳が少しまつ毛で隠れて、でも力強くて。
 上がった口角は挑発的で。
「好きだよ」
 囚われて、思考が停止した俺の言葉を、嶋本は
「知ってる」
 と。受け止めたのか、事実を述べただけなのか。
 だけど、嶋本はまたにやりと微笑んだ。
 ゆっくりと、吸い寄せられるようだった。抗おうとは思わなかった。
 こちらを見る嶋本の目はそらされることなく、いつまでも、力強く、煽情的で。
 背中にぬくもりを感じて、我に返ったら嶋本の顔が文字通り目と鼻の先にあって。
 唇に暖かで柔らかいものが触れていた。
 慌てて離したが、嶋本が追いかけてきた。
 触れるだけのキスはほんの少しだけ深くなって、どうすればいいかわからなくて。呆けていたら、ゆっくりと離れていった。
「俺も好きだぜ、お前のこと」
 嶋本はまたニヤリと微笑んだ。
「それは、しらなかった」
「だろうな」
 これは夢じゃないだろうか。こんなに自分に都合のいいことがあるだろうか。
 再開された思考はまだ完全じゃなくて、現実かどうかもわからない。呆けていたら、現実じゃないかもしれない嶋本が口を開いた。
「いつまでこうしてるつもり? それとももっかいする? 続きする?」
 嶋本に覆いかぶさったまま呆けてしまっていた。慌てて起き上がる。
 カシャン
「、あ〜あ」
 嶋本が次こそはあきれ返った様子で立ち上がり、部屋を出て行った。
「おじさーん、台拭き!」
 台拭きの言葉を頼りにテーブルを見ると、オレンジジュースが零れていた。
 色鮮やかなオレンジ色が、俺を現実に引き戻す。
 嶋本にキスをして、嶋本に好きだと言われて、続きを聞かれた。
 なんだ、しておけば良かった。
「おら、お前も拭け」
 差し出された台拭きを受け取って嶋本を見ると、まるでキスなんてなかったかのような顔だ。
 嶋本は慣れた手つきでテーブルを拭いている。
 全く減っていなかったジュースの殆どが零れており、嶋本は台拭き二枚を使ったがふき取り切れなかった。続きを拭いている間に、嶋本は台拭きを洗いに行った。
 拭けるだけ拭くと、ちょうど嶋本が戻って来た。目が合うと、嶋本はぷっと吹き出した。
「かお、」
「顔?」
「なっさけない顔」
 嶋本はテーブルを綺麗に拭いてしまうと、呆けた俺から台拭きを取って、ほとんど空になったコップを持って部屋を出た。戻って来た嶋本は新たなジュースを持って来てくれていた。
 ジュースをテーブルに置くと、嶋本は隣に腰掛けてきた。
「楽しいぜ」
「?」
「学校。去年よりはな。大分」
「そうか」
「特クラに入れて、ひとまずはお前が前の席で。伊藤はうるさいし、恵子ちゃんは可愛いし」
「恵子ちゃん?」
「ありゃ女神だわ」
「伊藤と付き合ってるからな、変なちょっかい出すなよ」
「何それ、二股許可?」
「まさか。絶対ダメだ」
 言いながら嶋本に覆いかぶさると、嶋本はあははと笑って受け入れてくれた。これが、話しかければ拒絶の言葉を返し、追えば逃げ、可能な限り姿をくらましていた嶋本であるとは信じがたい。
「なんで急に?」
「ん?」
 唇を離すとポロリと漏れてしまった。しかし嶋本は嫌な顔をせずに聞いてくれる。
「なんで急に、俺を受け入れてくれたんだ?」
「別に急じゃねぇよ。俺がこんなんだから迷惑かからねぇようにしてただけだ」
 言って、嶋本は俺の下から抜け出した。どこに行くのかと思えば、定位置へ戻って本を手に取った。ソファに横になって本を開く。
 今ならきっと答えてもらえる。ずっと聞きたくて、ずっと聞けなかった質問。
「何を読んでるんだ?」
「赤川次郎。卒業までに読破すんの」
「乙一は?」
「ジローちゃんの次かな」
「赤川次郎はあと何冊なんだ?」
「さあ〜、本棚半分くらい?」
「読破できるのか?」
「さあねぇ」
 言いながら、嶋本は背もたれ側に寝返りを打った。
 こうなってしまっては会話は続けられない。
 帰っても良かったが、ジュースを全然飲んでいないため、課題をしてから帰ることにした。
 課題が一段落して顔を上げると、嶋本は相変わらず本を読んでいた。ズズズとジュースを飲み干して、立ち上がる。嶋本は集中しているらしく、こちらをちらりとも見てくれない。しかし挨拶をしないのも気が引ける。
「そろそろ帰る。また明日」
 駄目元で言ってみると「おう」と返って来た。
 初めて、次会うことへの前向きな返事を貰えた。

 翌日、嶋本はこれまで通りギリギリの時間に斉藤とともに教室へ来た。
「嶋本! おはよう!」
 嬉しくてつい大声を出してしまった。嶋本は呆れた様子で、隣の斉藤はぷっと吹き出した。
「俺無視かよ」
「斉藤も、おはよう」
「おう」
「なになに、なんでそんなに楽しそうなの!」
 有がすぐに加わって、一気ににぎやかになった。
 嶋本も斉藤も、クラスに馴染めないだなんて心配する必要ないんじゃないかとさえ思った。
 しかし、そうは簡単にはいかないらしい。嶋本と斉藤を昼食に誘ったが断られた。
「お前らが嫌なわけじゃないけどさ。俺、お前らより楽しい奴らがいるから。悪いな」
 そう言って斉藤は一足先に教室を出て行った。
「俺はこれでも放浪先がいくつかあるからね。ひとまずそっち行くわ」
 そして嶋本も教室を出て行った。
「その放浪先にさ、ここ追加しようぜ!」
 嶋本を追いかけて有が叫んだ。
「そのうちなー」
「絶対だぞー!!」
「わあったよ、うっせーなー!」
 聞こえてくるやりとりに、イガさんがほほ笑んだ。
「嶋本君が照れてる」
 そしてこちらを向いた。
「真田君が頑張るなら、私たちがフォローする。きっと、いいクラスになる」
「イガさんにそう言ってもらえたら心強い」
「……本当にわかってる?」
 イガさんは声を落として続けた。
「あの二人がクラスに馴染めないのは、ここが特クラだからよ。内申に傷を付けたくない生徒ばかりなの。二人をクラスに馴染ませるためには、彼らの警戒心を解かなきゃいけない。そのために、校内一の秀才である真田君が、二人と仲良くしてる姿を見せて行かなきゃいけないのよ?」
 それは、昨日嶋本と話をして、結局見つけることが出来なかった答えだった。でも、
「俺はそんなに影響力があるのか?」
「あるから言ってる。秀才で有名な人物と不良で有名な人物、二人がそろって目立たないはずがない。てっとり早く済ませようと思ったら、あなたたちの認知度を利用するのが一番なの」
「なるほど、わかった」
 去年嶋本も自分たちは有名人だと言っていた。だからこそ去年は避けられていた。
 だけど、そうか。今年は有名人であることがうまく作用するのか。
 なりふりかまわず動こう。
 多少鬱陶しがられたって大丈夫なことは、嶋本が思ってた以上に優しくて心が広いことは、昨日わかったんだから。


 そして。

 時は少し過ぎて、一学期末テストが終わった。
 今日の水泳の授業は、クラス対抗戦の選手選び。
「よろしく」
「やだね」
 俺は、嶋本と二人、アンカー選出のスタート台に立っている。
 少し前までじわじわとクラスに打ち解けてきていた嶋本が、ここへきて急激にクラスに溶け込んだ。
 というより、なんだか人気者になってきていて、嬉しいやら、寂しいやら、だ。
 斉藤は、昼休みは相変わらずどこかへ消えてしまうが、休み時間の度に二人そろって姿を消すことはなくなった。
 ピー!
 ホイッスルが鳴って、一斉に飛び込んだ。
 去年の体育祭を思いだして、それだけでなんだか楽しくなる。しかし、夢のように楽しい時は一瞬で過ぎ去った。
 勝負がついて、ぜぇぜぇと肩で息をする嶋本は、やっぱり、力強く野生じみて美しく。その上、水をしたたらせているものだからひどく煽情的で。俺は慌ててプールから上がった。

 対抗戦の日はあっという間に来るのだろう。そして、あっという間に1学期が終わって、あっという間に卒業式の日がくるのだろう。
 一秒たりとも無駄にはできない。一秒一秒を大切にしなくてはならない。
 皆が不本意だった2年間を、これから皆で取り戻す。

 嶋本の不本意だった2年間は、これから二人で取り戻すのだ。

(終わり)

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