アイカギ 1
気付いたら三月になっていた。暖冬で暖かかったから、季節感なんてなくなっていた。
去年は、一つ春を見つけては感慨に浸ったりしていた。四月になると、いつの間にか冬が見当たらなくなっていることに気付いて、少し寂しくなったりもしていた。それでなくてもひとりじゃやってられない時期だった。何が自分を寂しくさせるかなんて、見当もつかなかった。
元が幸せ過ぎた。だからきっと、去年はどん底だった。
でも、もう大丈夫。愛する人が傍にいるから。
新隊は扱いやすい者で編成した。年上の部下とも、使いものにならない新人ともおさらばだ。
隣に恋人がいないことには流石に慣れていた。
常に行動を共にしなくとも、会おうと思えばすぐに会える。職場が同じで、ふいに顔を合わせることがある。
そのなんと贅沢なことか。
悲惨な隊の隊長を務めた一年間で、愛する人に会えなかった一年間で、嶋本は心に余裕ができた。そして、同じ地位に就いたことにより、責任感だけでなく、純粋に気を引き締めることができた。
「お疲れ様です」
挨拶だけをしてすれ違う。この当たり前のことが、二年前では有り得なかった。だが今は、職場で真田を見れば気が引き締まる。もう隊長なのだと自分に言い聞かせる。もうあなたの部下ではないのだと、同じ場所に来たのだと態度で示す。恋人も、もとより口数の多い人ではないからか、そのことについては何も言わなかった。
これがマンネリではない自信はあった。信頼で結ばれた良い関係だと満足すらしていた。
しかし、ズレは確かに生じていた。
嶋本の部屋で二人、何をするでもなく過ごしていた時のことだ。
「嶋本、これを返す」
そう言って真田がローテーブルに置いたのは、鍵だった。嶋本の部屋の鍵。最大の信頼の証、合い鍵。
「へ?」
「俺は、嶋本の妨げにしかならない」
「妨げやなんて、いっこもなってませんよ」
「近いうちになる」
「分かってんねやったら、気い付ければええだけのことやないですか」
「それができそうにない」
「ほんなら、どう妨げになるんです?」
真田は鍵を見つめたまま答えない。その様子に、嶋本は一気に不安に陥る。
何かしてしまっただろうか。何か気に障ることでも言ってしまっただろうか。
「真田さん……?」
言って真田の手を取る。ひとまず、その手を払われることはなかったのでほっとする。
「ねぇ、真田さん。俺は、真田さんを妨げやなんて思いませんよ」
覗き込み、ゆっくり言う。すると真田が口を開いた。
「だから、駄目なんだ」
しかし目を合わせてくれないので、不安は大きくなる。
何か、あったのだろうか。
「ワケわからへん。……何が駄目なんですか?」
「……」
真田は答えない。もう一度呼びかける。
「ねぇ、真田さん」
「……」
あかん、泣きそうや。
「俺も、鍵、返した方が良いですか?」
何かしてしまったのだろう。
嶋本は震える声をなんとかこらえ、言った。
「ああ」
と、言われるものだと思った。しかし真田はそうは言わなかった。
「いや、うちの鍵は、持っていてほしい」
そしてようやく目を合わせてくれた。どうやら嫌われたわけではないらしい。
「なんや、嫌われたんかと思った」
嶋本の涙腺は一気に緩んだ。涙がボロボロと溢れ出す。慌てて袖で拭えば、真田の手が伸びてきた。親指で拭ってくれたが、その体温にまた涙が溢れた。
「すまない、不安にさせてしまったな」
そしてその言葉が、涙腺に止めを刺した。まるで決壊したように、次々と涙が溢れ出す。真田も驚いたが、本人が一番驚いた。いっそ笑いがこみ上げてくる。
「もお〜〜! 止まれへんやないですか!!」
「あはは。いいんじゃないか、無理に止めなくても」
「嫌です、格好悪い!!」
その日真田は、日付が変わる前に嶋本の部屋を後にした。それまでだったら、夜会ったら朝まで共に過ごしていたはずだ。真田に何か心境の変化があったのは確かだ。
嫌われてはいない。その確認はできたが、真田は他の事は何も言わなかった。
やはり何かしてしまったのだろうか。それとも、何かやましいことでもあるのだろうか。
信じていないわけではないが、どうしても不安になってしまう。
そして今、その不安が、自分の真田への依存のしかたを自覚したことからもきている。
嶋本は、嫌われてはいないことさえ確認できれば、涙は収まると思っていた。しかし、真田のちょっとした言葉に、温もりに、笑顔に、涙腺はみるみる崩壊していった。まさか自分がそこまで真田に依存しているとは思っていなかった。真田の存在を失うことが、あんなにも恐ろしいことだなんて、思ってもみなかった。
今の状況に満足していては駄目だ、と思った。同じ国にいるからといって、職場が同じだからといって、コミュニケーションを取らないのは駄目だと思った。
何故だかわからないけれど鍵を返されてしまった今、嶋本は真田の部屋に足しげく通うしか方法は無かった。
