彼女の名は、 2
一人、また一人と、そそくさと着替えを終えては先に帰っていく。最後に嶋本と二人でロッカーを後にした。
どう切り出そうかと考えていると、嶋本がおずおずと声をかけてきた。
「すいません、真田さん。俺、急ぎの用ができまして……」
急ぎの用だなんて、そんなの。ロッカーで聞いた言葉と、ロッカーでの様子を考えたら、一つしか思い浮かばない。
「行かせたくない、と、言ったら?」
「え? ……まあ、今日じゃなくても多分大丈夫やとは思いますけど」
「なぜ大丈夫だと言い切れる?」
「……なぜ?? んー、最悪、真田さんがおるから?」
何だそれは。どういう意味だ。
いや、意味なんて、分かりたくない。
いつからだろう。いつどこで間違えたのだろう。
いや、今更考えてもこうなった事実は変わらない。
嶋本を失いたくない。嶋本を誰にも渡したくない。
醜い感情ばかりがふつふつと湧き上がる。
「大事な話がある。今日話したい」
なんとかそれだけを言って、醜い感情にとりあえず蓋をする。
家路を急ぐ。嶋本は終始気まずそうにこちらの様子を覗って、しかし会話はないままに部屋に着いた。
ドアを閉めるのと同時に、蓋はいとも簡単に、勝手に外れた。醜い感情が溢れ出す。
嶋本を逃げられないように抱きしめ、唇を塞ぐ。気の済むまで、唇を、口内を犯す。
最初驚いていた嶋本が、抱き返し応えてくれたことにわずかに安堵して、ようやく、唇を離した。
醜い感情は、いまだ勢い良く湧き出ている。
強く抱きしめ、言う。
「好きだ。好きなんだ」
「……真田さん?」
もどかしい。
言葉にしないと伝わらないなんて。
言葉にしないと通じ合えないなんて。
「誰にも渡したくない」
「真田さん……」
「俺は、不器用だから。ぽっかり空いた穴を代わりのもので埋めることなんてできない」
嶋本は、器用に別のものを埋め込んだ。
「誰も嶋本の代わりになんてならない」
嶋本は、うまく変わりのものを見つけられた。
「俺には、嶋本以外の、他の人が入り込んでくる隙間なんてない」
だけど嶋本には、その隙間が出来てしまった。
そして、その隙間を作ってしまったのはきっと、至らない自分なのだ。
「嶋本、気に入らないことがあるなら言って欲しい。何も言わずに他の人の所へなんて、行かないで欲しい」
嶋本は、他の人の所へ行こうとしている。
こんなことになるまで、全然気付けなかったなんて。
しかし、
「もちろんです」
と、嶋本は言った。
「まあ、もともと言いたい事言わせてもらってますし、そんなことにはならないと思いますけど」
と。
はにかむ笑顔が、とても愛しい。
「どしたん、急に?」
その言葉に、声に、そして腕に。ふわりと包み込まれる。
この柔らかで暖かな空間を。失うなんて、考えられないのに。
「嶋本、好きな女性がいるんだろう? 隠さなくて良い」
「は?」
「とぼけたって無駄だ。今日も、電話していたじゃないか。俺が突然現れたから、慌ててケータイの電源を落としたんだろう?」
「……何のことですか?」
「とても大事にしてきたのだろう。そんな人と駄目になりそうなのに、俺は、会いにも行かせず……」
そこまで言うと、嶋本が腕の中から抜け出した。嶋本は、ゆっくり、そしてしっかりと、言葉をつむぐ。
「俺には好きな女性がいて、二股かけてて、真田さんは今、俺を女性の所へ行かすまいと、思いの丈をぶちまけてるんですか?」
「そうだ」
答えると、嶋本は頭をぼりぼりとかいた。そして、呆れた顔で、しかし一音一音はっきりと言った。
「俺に女作る暇がないのを一番わかってるのは、誰でしたっけ!」
「俺だ」
「ほな、俺に女作る暇がないのをわかってる真田さんに聞きます。俺は、いつ、女を作ったんですか?」
「知らない。だが、大事にしてきた女性がいるんだろう」
「だから、いませんて。どっから出てきたんです、その女性」
「電話を聞いた。基地で多くの人が聞いてる。今日だって、話していただろう」
「話してませんよ。てか、そんな女性いないんですから、電話できるはずがないですよ」
「ではなぜ、ケータイの電源を入れない。切ったままなのは、やましいことがあるからじゃないのか」
「これは、切ったんちゃいます! 電源入れたくないんやなくて、入れられへんのです! 調子悪くて!!」
叫んで、嶋本は一呼吸おいてから「あ、」と声を漏らした。
「俺が電話で話してた内容、教えてもらえます?」
その問いに、俺は記憶の限り全てを話した。嶋本は、一つ聞くごとに表情を崩し、しまいには堪えられずに爆笑していた。
「嶋本?」
「電話はしてません。でも確かに、ケータイは手に持ってました」
嶋本は笑いながら言う。
「急にケータイ画面真っ黒になったら、誰だって焦るでしょう」
『え、ちょっ。いきなり!? どしたん、急に〜』
「で、その場でちょっと、いじりますやん。どうにかならへんかなーって。でも、どうにもならへんかったら、」
『ええ〜、うそん。ありえへん』
「それから、考えますよね。そんなんなった原因」
『いやいやいや、俺何かしたか? してへんやろ』
「で。お手上げ。でも、修理出す暇もないし放置してたら、いつの間にか普通に動き出しよるんですわ。だから使てたら、また真っ黒画面。それの繰り返し。繰り替えしとったら、ある程度慣れますよね」
『ま〜だ機嫌悪いんか。どうしたら機嫌直してくれるん』
『お。今日は機嫌ええなぁ』
『うーわ、またか。どないしたんや〜』
「でも、ちょっとずつ、動かへん時間が長くなってくんですよね」
『お〜い。いい加減機嫌直してくれ』
『今日ひどいなぁ。全然元気ないやん』
『元気出してくれ〜。お前に元気がないと俺めっちゃ困んねん』
『ほんま最近どないしたん』
「で。今日はほんまにもう、全っ然動いてくれへんかって。いい加減修理出さなあかんな〜って」
『ここらが潮時かなぁ……』
「電源、入るかな。……ああ、やっぱ無理や」
言って、嶋本は携帯電話をよこしてきた。真っ黒の画面は、何をしても動く気配がない。
「そう、だったのか」
「はい」
「信じられなくて、すまない」
謝ると、意外な言葉が返ってきた。
「ええですよ、それは。俺も、真田さんまだ俺んこと信じてくれてるときに、……信じきれんかったし」
少し考えて、なぜか謝られて俯かれたことを思い出す。なるほど、あれはそういうことだったのか。
「それより!」
嶋本は眉をいつも以上に吊り上げて言った。
「俺が二股かけとるかも、ってなった時に、二股を受け入れたことのが問題ですよ!」
それは、受け入れた覚えはない。しかし、受け入れなかった覚えもない。
そうだ、俺は、「誰にも渡したくない」としか言っていない。
「そこは怒ってくれんと! 何です? 真田さんの俺への愛はその程度なんですかっ!」
言って、嶋本はフンと背中を向けた。ちらりと見える耳が、あっという間に赤くなる。
こんなにも愛しく想うのに、そんなはずがない。
俺は、そのまま背中から嶋本を抱きしめた。
「それどころじゃなかった。嶋本が別の人の所へ行くのは俺が至らないからだと思った。嶋本を責めるなんて、今の今まで思いつきもしなかった」
「思いついて下さい! 自分だけじゃだめなのかって、怒ってください」
なんて理不尽で、嬉しい我侭だろう。
「わかった。次からはそうする」
「……まあ、次なんて、ありえないですけど」
尻すぼみになる言葉と比例して、嶋本は顔中真っ赤になった。そんなところも愛しい。
「明日、こいつを直してもらいに行こう」
携帯電話を、嶋本の手の中へ返す。
「そうですね。早く元気になってもらわんと。甘ったるい真田さんはかないませんわ」
そして。
基地中を騒がせた『彼女』は、今は大人しく使命を果たしている
(おわり)
