ハネダの鐘つきカビ人間 10
シマはいつの間にか鐘つき堂へと続く階段を上っていた。どうやって話を終わらせたのか、どうやって飲み屋を出たのか、どうやってここまで来たのか、全く思い出せない。
ただ、怒りと悲しみと不甲斐無さでぐちゃぐちゃになっていて、夜遅い為にカビ人間が鐘つき堂にいない恐れがあることをすっかり懸念していた。
果たして、鐘つき堂にカビ人間はいなかった。
しばらくの間シマは、鐘つき堂にカビ人間がいないことの意味がわからなくて。カビ人間が鐘つき堂に住んでいるわけではないことに、しばらく気付けなかった。
ぐちゃぐちゃの感情と思考の混乱に立ち尽くすシマに、後ろから声がかかった。
「シマ?」
カビ人間が階段のふもとにいた。
シマが振り向くと、カビ人間は嬉しそうに、だけどどこか心配そうに階段を上がってきた。シマも慌てて3段ほど下りたが、僅かな距離さえもどかしくて、その場で叫んだ。
「カビ人間! 俺は、お前を疑う! もし何も起きんかったとしても、この俺だけは、絶対にお前を疑う!!」
その言葉に、カビ人間は足が止まりそうになったが、慌ててシマのもとへ駆けつけた。カビ人間には、シマが今にも泣き出しそうに見えたのだ。
「シマ……?」
カビ人間は思わずシマの肩に手を置いてしまった。カビ人間に触られて嬉しい人なんていないのに、嫌がられる。そう思ったが、カビ人間はその手を退けられなかった。だけど、シマも嫌そうなそぶりを見せなかった。シマは、しっかりとカビ人間を見据えた。
「この町は素晴らしい」
シマが言った。
「この町の人達は正しい。現実を追ってる。好都合なことは全部お前のおかげにして、現実を追ってる」
「……どういうことだ?」
「カビ人間。お前は美しくなんてない。皆ほんまのこと言うとるだけ。お前は町中の人達にたくさんのことをした。皆ほんまのこと言うとるだけ」
「まさか、」
「嘘やって。お前は美しくなんてない。お前はたくさんのことをした。何べんも言わへん。お前は美しくなんてない。お前は、たくさんのことをした」
言って、シマは視線をカビ人間からわずかにずらした。そして、近距離で話すには大きな声で続けた。
「カビ人間は町中の皆にたくさんのことをした! 親父の目が見えるようになったんも、カビ人間が原因や!」
カビ人間が振り返れば、シマの視線の先には五十嵐が立っていた。
「帰るわよ」
五十嵐はシマの言葉を無視してそれだけを言った。シマも五十嵐には答えなかった。
「ほんまは、恋人が生きたんも、カビ人間が原因なんやろ?」
「黒岩も心配している。帰るわよ」
「カビ人間が良くないの、ほんまは知らへんやろう」
「隣の斉藤さんだって、鈴木さんだって心配してる。帰るわよ」
「カビ人間は……。甚は、有が生きたことを誰よりも喜んだ。甚は、有を助けたことを誰よりも喜んだ」
「何を言っているの……? 彼が死んだのはそいつのせいよ! 山田さんだって、小林さんだって、小林さんの従兄弟の榎本さんだってそう言ってる」
「せや、カビ人間が原因や! ほんまは知らへんくせに! ほんまは、何も知らへんくせに! なんで現実を追うん!!」
その言葉に、五十嵐はわずかに表情を曇らせると何も言わずに踵を返した。シマはしばらく五十嵐の後姿を見送って、ポツリと言った。
「帰ってええ?」
「うん。だけど、ここは寒い。うちへおいでよ」
「うち?」
「鐘つき堂の下。倉庫だけど。神父が、そこなら寝泊りして良いって」
「行かへん」
「よし、決まりだ!」
カビ人間はシマの手を取り倉庫までのわずかな道のりを走った。倉庫のドアは、階段を下りて教会の裏にぐるりとまわった所にひっそりとあった。カビ人間はドアを開けると、シマを中へと促した。
「うわぁ……。倉庫ちゃうやん!」
「うん。倉庫だ」
言って二人はアハハと笑った。
広い倉庫の一角に、見るからに硬そうなベッドと古ぼけた小さな箪笥と棚が置いてある。そこが、カビ人間の『うち』だ。
シマがきょろきょろ辺りを見渡していると、カビ人間がベッドに腰掛けた。シマは慌ててそれに習う。
これまでにない体温が伝わってきそうな距離に、カビ人間はとても幸せな気持ちになった。だけど気になることが一つある。カビ人間はシマに向き直った。
「シマ、一つ、聞きたいことがある」
「ん?」
「ジンとユウについて」
シマは少しだけ考えて、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「有はイガさんと離婚するはずやった人。有は甚と特に親しくなかった」
飲み屋の主人は、自分も酒を飲みながら陽気に様々なことを話してくれた。その中の一つにこの話題があった。飲み屋の主人によれば、カビ人間の名前は甚。この町唯一の診療所の看護士で、有能さと誠実さもあいまって甚を知らない者はいなかったらしい。必然的に、甚と共に働いていた有も、この町ではよく知られていた。
「俺は、有を殺したのか?」
思いがけない問いに、シマは力の限り首をふった。
「殺した! 殺さへんはずがない! 有が生きたん、カビ人間が原因や!」
飲み屋の主人の話には、こんなものもあった。
有が死んで、ショックを受けた甚は、人の不幸を一身に背負うようになった。こんな思いを他の人にさせてはいけない。自分が不幸を背負うことによって誰かが楽になるのなら、自分などどう言われようとかまわない。
甚は、胸のうちを主人だけにそう話したらしい。
そうして、時が経つにつれ、甚は人を騙しては金を取る酷い人物として知れ渡っていき、町人達は何か起きれば甚のせいにするようになったと言う。
更に時が経つと、町人達は以前の誠実な甚をすっかり忘れてしまった。
その話を聞いて、シマは町中で聞こえてきたカビ人間の話題を思い出した。「あれの原因はカビ人間に違いない」皆一様にそう言っていた。その時カビ人間の姿を見た者は一人もいないのだ。
シマは、カビ人間は本当に何もしていないことを確信した。
「ではなぜ、五十嵐さんは俺を憎む?」
「心が、強いから」
言って、シマはふっと笑った。
「斉藤、鈴木、山田、小林、榎本。……好転しとる」
「……悪化? 疫病か?」
シマはこくんとうなずいた。知りもしない人の名前を言ってしまうのが、五十嵐の症状。
「平静でいるととたんに隠れる」
今のシマには、五十嵐の嘘が手に取るようにわかる。
「カビ人間」
シマは、カビ人間の手をとりまっすぐカビ人間を見つめた。
「俺は、お前を疑う。だから、カビ人間も俺を疑ってほしい」
それが、優しくも哀れなカビ人間にしてやれる、シマの精一杯だ。
その精一杯に、カビ人間は全身で答えた。手をほどき、シマを抱きしめる。
「ありがとう。信じる」
その言葉に、シマは背中に手を回すことで返事をした。
そのまましばらく抱き合って。
気恥ずかしくなってきたシマは「あ、昨日!」と、突然口を開いた。
「うん?」
カビ人間は体を離して真正面からシマを見た。
「昨日、俺がパン売って来よか! カッチカチの硬くて不っ味いパン、食べたない?」
「食べたい!」
カビ人間の純粋さは、まるで子供のようだ。カビ人間の元気な返事に、シマは思わず笑みがこぼれた。
