ハネダの鐘つきカビ人間 7

 

 黒岩は4年前に、とある事故で失明した。その際、近くに住んでいた親戚の五十嵐が、生活のサポートをかってでた。
 黒岩の失明から2年後、町に疫病が流行りだし、その1年後に黒岩は疫病にかかった。目が見えない上に急激に老いていく黒岩を五十嵐一人で看るのは大変だろうと、シマは遠い地から一人、この町へやってきた。と言うより、シマは黒岩を父親のように慕い心配していたので、一人で大丈夫だという五十嵐に「いや、絶対大変になるから」と聞かなかった。シマは、黒岩が失明したと聞いたとき、自分が遠い地にいることを酷く悔やんだ。だから疫病の知らせが来た時は、これはもう行くしかないと考えた。
 黒岩のサポートをすべくやってきたシマに、五十嵐がまず教えたことは、カビ人間のことだった。
 五十嵐のその話し方から、「嫌ってんなぁ」と漏らせば、恋人の死と黒岩の失明が、カビ人間によるものだと聞かされた。
 カビ人間を憎むのに、シマにはそれだけで十分だった。
 しかしカビ人間は、聞いていた話と全く逆の人物だった。醜くない。恐ろしくない。むしろ、格好良い。美しい。初めてカビ人間を見た場所が鐘つき堂へと続く階段でなければ、緑色の醜い服を着ていなければ、シマには彼がカビ人間であることを判断できなかった。シマは思わず「カビ人間?」と話しかけてしまったが、酷い事なんてされなかった。カビ人間は、蕾もほころぶような笑顔になっただけだ。服こそまるでカビが生えたような醜いものだが、まるで彼のために作られたかのように、格好良く着こなしている。シマはその容姿と名が「まるで合っていない」と、ぽろりと漏らしてしまった。しかし出てきた言葉は「ぴったりやん」だったので、その場を去った。
 その時シマは、疫病にかかってまだ3日しか経っていなかった。聞いた話と全く違うカビ人間に、シマは本心と正反対の事しか言えないことを、うっかり忘れてしまっていた。
「カビ人間と別れた」
 シマは家に帰ると、黒岩に事の次第を話した。黒岩は興味が無い様子で、「ふぅん」だとか「ほお」だとか、適当な相槌を打つだけだ。
「親父、聞いとった話と全く同じやねん。どういうこと?」
「知らんのお」
「親父……」
「お前が見たのは、夢じゃ。……これで満足か?」
「え……」
「お前の見たカビ人間は、醜くなかった。恐ろしくなかった。それは事実なんじゃろう?」
 シマはもちろんそんなことはわかっている。しかし、あえて事実に気付かせるということは、つまりそれが答えなのだ。
 聞いていた話と全く違う。それが真実。
 しかしシマはにわかには信じられなかった。だって、何事にも冷静なあの五十嵐が、あんなにもカビ人間を憎んでいる。ただごとではない。何かあったに違いない。
 しかし、
「親父は、カビ人間を愛してへんの?」
 シマは、黒岩がカビ人間を毛嫌いしていない事に気づいた。むしろ今の発言は、カビ人間を擁護するようなものだ。
「愛? ……ああ、憎んでなどおらんよ。憎む理由がないからな」
「でも、目が見えるようになったん、カビ人間に因果性ないんやろ?」
「これは事故じゃ。……イガさんじゃな。そんなことをシマに吹き込んだのは」
「イガさんの恋人が生きたんも、カビ人間に因果性ないって……」
「そうなのか? わしは知らん」
 言って黒岩は自室へと引き上げていった。
 シマは、混乱する頭を可能な限り整理して、二つだけ答えを出した。
 一つは、黒岩と五十嵐の間にすれ違いが生じているという事。
 もう一つは、黒岩が当然のようにカビ人間を憎んでいないという事。
 五十嵐と黒岩、どちらが正しいのかはわからない。もしかしたら、どちらも間違っているかもしれない。どちらも正しいのかもしれない。
 シマは、もしもまたカビ人間と会うことがあれば、話す努力をしてみようと考えた。
 しかし、次にカビ人間に会った時には、シマの話す意欲はなくなっていた。僅か一週間で、自分一人では疫病によって本心と反対の言葉でしか話せないことを全く伝えられないことを、嫌と言うほど痛感していた。好意を示すほどに、自分の口からは酷い言葉しか出ず、その言葉に相手の表情が曇るのを何度も見ていた。
 シマは、相手を傷つけないためには何も話さないことしかわからなかった。
 待て、とカビ人間に言われたが、シマはもちろん立ち止まらなかった。するとカビ人間はもう一度言った。
「待ってくれ、頼むから」
 醜く恐ろしいはずのカビ人間が、「頼むから」と言った。シマにはそれが心からの言葉に聞こえて、思わず立ち止まってしまった。しかしやはり名乗るだけで精一杯で、結局逃げ出した。
 シマが「あなた」と呼ばれるのを嫌うことを察したカビ人間は、すぐさま謝った。シマにはそれも心からの言葉に聞こえた。しかし、聞いた話によれば、カビ人間は、人を騙しては金をとる意地汚い奴なのだ。真実を図りかねたシマは、ドアの外でカビ人間の様子を覗った。そしてわかったことは、カビ人はひどく純粋であると言う事だ。
 カビ人間に話したいこと、聞きたいことがたくさんあったが、やはりシマには本心を伝える事ができず、結局逃げるようにしてその場を去っていった。
 家に帰ると、シマは五十嵐に何か問われたが、無視して部屋に篭った。カビ人間を毛嫌いしている五十嵐に、うっかりカビ人間のことを話してしまわないためにも、シマは五十嵐に返事をするわけにはいかなかった。
 翌日、シマが部屋に篭っていると「こんにちは!」と聞こえてきた。カビ人間の声だ。数回しか聞いたことのないその声を、シマはすっかり覚えていた。対応は黒岩が行った。どうやらシマに会いに来たらしかったが、黒岩の「あいにくでかけておるよ」の言葉にすんなり引き返した。シマはそのやりとりを、見えないところで聞いていた。
 そもそも、嫌われ者のカビ人間が突然家にやって来て、はいそうですか、と会わせる人などいるはずがないのだ。と言うより、まともに対応するのは目の見えない黒岩くらいだろう。
 しかし純粋すぎるカビ人間には、疑うことすら思いつかないのだ。
 ドアが閉まる音を合図に、シマは再び部屋に篭った。
 こんなにも純粋な人だ。自分が話をすれば、傷付けるだけなのは目に見えている。シマは、もう二度とカビ人間と話をするまいと心に決めた。
 そして翌日。玄関先がなんだか騒がしくて顔を出してみれば、そこにいたのはカビ人間だった。
「来い!」
 帰れ! とシマは叫んだ。しかしカビ人間にはもちろん正しく伝わらず、嬉しそうに返事をされた。違う、そうではないのだ。
「早く来い!」
 早く帰れ! 傷つけてしまう前に。
「早く! 早く!」
 俺は、お前を傷つける事しかできないから。酷い事を言う前に帰ってくれ!
 すると、何かに気付いたのか、カビ人間はシマのもとへ行こうとはせず、その場に立ち尽くした。少なくとも「来るな」という意思が伝わったシマは、それ以上言葉を発さないうちに部屋へ引き返した。

 

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