高校生 10
体育祭の余韻が無くなると同時に、校内は迫りくる中間テストでなんとなく落ち着きがなくなる。そして、図書館は勉強場所を求めた生徒でごった返す。それでなくても図書館で嶋本に会えることが減っているというのに、これでは嶋本が来なくなってしまう。そんな危惧をしながら図書館へ向かうと、ちょうど図書館から出てきた嶋本と鉢合わせた。無視されて振り切られる前に話しかける。
「寝ないのか」
「あんなんで寝れっか」
吐き捨てて嶋本は行ってしまった。怒りが滲んだ声色で、とても深追いは出来なかった。試しに図書館内を覗いてみると、なるほど酷いありさまだった。読書スペースまで勉強する生徒であふれかえり、ソファに座れない生徒がどこからかパイプいすを持ち出してまで勉強していた。他の教室に比べれば静かなのだろうが、いつもの静寂ではなかった。これは、俺の好きな図書館ではない。
俺はテストが終わるまで図書館には来ないことにした。どうせ嶋本も来ないだろう。
「あれ? 図書館は?」
教室に戻ると、有に声をかけられた。
「勉強する生徒でごった返していたからテスト終わるまで行かない」
「そうなの? まあ、ちょうどいいや。話したいことがある」
有にしては珍しく、静かな声だった。
「甚は生徒会興味ある?」
「ない」
「良かった。次のホームルームで、生徒会選挙クラス代表選ぶじゃん。俺なりたくてね」
「それは初耳だ」
「てか、けっこうがっつり上目指したくてね」
「どうしたんだ急に」
「急じゃない。やりたいこと、今期中じゃ全然無理だった。来季の奴らに引き継ぐんじゃなくて、自分でやりたい。自分で立候補するけど、多分お前の名前も上がってくる。だから、」
「有を推せばいいんだな」
「それと、応援演説頼みたい」
有はいつになく真面目な顔で。
「わかった」
答えると、「よし!」といつもの笑顔になった。
生徒会選挙は中間テストの一週間後だ。
勉強が楽しくない。
テスト前、図書館はいつもの静寂がない。塾は皆の焦りが伝わるようで落ち着かない。家は、……何か物足りない。
テスト二日目が終わった火曜日の昼食後。どうしようかと考えて、喫茶店を思い出した「いつでもおいで」と言われている。とうに夏休みは終わっているが、甘えることにした。
そしてマスターは、相変わらずのスキンヘッドと笑顔で迎えてくれた。しかも、
「お昼食べた?」
「食べて来ました」
お昼の心配までしてくれて、なんだか照れ臭くなった。
夏休みと同じくジュースを持たされていつもの部屋へ。扉を開けると嶋本がソファーでうたた寝していた。2学期になってから、嶋本とはほとんど会えていない。避けられているのかとさえ思っていたから、嶋本はいないだろうと予想していた。だから、少し驚いた。
「おお、」
声を上げたのは嶋本の方だった。寝ぼけ眼の嶋本は、しかし瞬時に状況を把握したらしい。
「20分経ったら起こして」
言い残して眠りについた。
静寂の中、すぐに嶋本の寝息が響き渡った。
呼吸を合わせると、なんだか落ち着く気がした。
目を閉じると、自分だけの空間が出来た気がした。
そうすると、時計の秒針の音が聴こえてきて、静けさが増した気がした。
10数えて、目を開ける。嶋本が、眉間の皺をどこかにやって眠っている。
しみじみと、この静寂が好きだと思った。
きっちり20分後、嶋本の肩を軽く叩いて起こした。
「、どうも……」
覚醒しない様子で礼を述べた嶋本は、思い切り良く伸びをした。そして、まだ気だるさの残る声で「お前さあ、」と口を開いた。
「懲りろよ。うちの担任に絡まれてたろ」
「知ってたのか」
二学期に入ってすぐ、嶋本の担任に廊下で声をかけられていた。
「そんなことはどうでもいいんだよ。俺は、目え付けられてんの。例え何もしなくても、俺が誰かといたら。それはもう、俺がそいつをたぶらかしたり、俺がそいつに何かしたってことになるの。迷惑なんだ」
「それはあの先生が間違ってる」
「でも周りは、不良と教師だったら、教師の言葉を信じる。俺の言葉は信じてもらえない。そして、お前の言葉も信じてもらえない」
「なんでだ」
「言ったろ。俺がお前をたぶらかしたり、脅したりしてることになってるからだ」
「……」
『そう言うように言われているのか? 本当のことを話して大丈夫だよ』
「そんな風に言われて話にならない」
嶋本は経験しているかのように、諦めたように話す。
「誰かといたら、それだけで俺は悪く言われる。迷惑だ」
そしてようやく、嶋本の担任に声をかけられた意図が分かった気がした。
『夏休み中、嶋本と同じ喫茶店に出入りしてたのは本当か?』
『嶋本とは仲がいいのか?』
『君は優等生なんだから、わかるね。考えて行動しなさい』
『忘れないで。先生は君の味方だよ』
嶋本が不良だから心配されたのだろうと考えていたが、違う。あわよくば、嶋本を陥れられる情報はないかと、探りを入れて来たのだろう。先生にとって、嶋本はどうしようもない不良で気に入らない存在なのだ。だから攻撃する。排除したい。
「お前はそれでいいのか。俺は嫌だ」
「どうにかなるなら、とっくにしてる」
言って、嶋本はジュースに手を伸ばした。
もう話をする気は無いらしい。
ノックの音で顔を上げると、窓の外がすっかり暗くなっていて驚いた。時計を確認すると18時半を回っていた。帰らなければ。そう判断したのと同時に、嗅覚がくすぐられた。
カレーの匂いだ。
「晩御飯食べてって」
マスターが二人分のカツカレーとコールスローサラダを運んできて、嶋本の眉間の皺が深くなった。だけど流石にこれは、断るのは気が引けた。
「ありがとうございます。親に電話を……」
「いーいー。しといたから。遅くなりすぎるなってさ。おかわり気軽に言って」
そしてマスターは出て行った。
気分を切り替えたのは嶋本が先だった。教材を片付け始めた嶋本に慌ててならう。
消しゴムのカスを嶋本が台拭きでふき取る。すると、勉強の気配がすっかりなくなった。
嶋本はスプーンを手に取って手を合わせると食べ始めた。いただきますは、言ったのか言わなかったのか、聞こえなかった。
「いただきます」
俺の声は届かないかのように嶋本はもくもくと食べる。
「美味い」
感想にも嶋本は無反応だ。
結局食べ終わるまで会話はなかった。
水を飲んで、帰ろうかと考えていたら嶋本が胸ポケットから煙草を出した。吸うのかと思ったが違った。再び胸ポケットに手を入れて、取り出されたのはガムだった。一粒自分の口に放り込んで、そして一粒寄越してくれた。
「ありがとう。いつも持ち歩いてるのか」
「煙草の匂い消すのにね」
「効果あるんだな」
言うと、嶋本がおもむろに身を乗り出してきた。
そして、ふぅーと、こちらに息を吐き出した。
「な。カレーの匂いももうしない」
急なことに驚いて固まってしまった。そんな俺に満足したのか、嶋本はしたり顔だ。
「そうだな」
答えたものの、本当は匂いなんてわからなかった。
普段見下ろしている嶋本の顔が少し上にあって。
そぼめられた唇、頬に落ちるまつ毛の影、薄く閉じられた目に、心を奪われた。
初めて見るしたり顔が嬉しくて。
そのしたり顔が、ひどく扇情的で。
自分は嶋本にそんな風に興味を抱いていたのかと気付いてしまった。
「帰る」
帰らなければ。余計なことをしてしまう前に。
「おお、」
俺の唐突な宣言を、嶋本は不思議そうに受け入れた。
余計な力の入っていない嶋本には眉間の皺がない。無垢で、綺麗に見える。いつもそうしていればいいのに。
いや、俺といる時だけ、そうなればいいのに。
荷物と二人分の食器を持って部屋を出る。
「ごちそう様でした」
「早いね。もう帰るの?」
マスターが驚いたように言った。
「またいつでもおいで」
「ありがとうございます」
はい、とはとても言えなかった。もうここへは下心なしに来られない。下心のあるうちは来られない。
嶋本の唇を、目を、思い出す。
よく働いてくれたものだ、と己の理性に感服する。
そのまま嶋本のことが頭から離れなくなって、そして、後悔した。
嶋本には、「懲りろ、迷惑だ」つまり「いい加減話しかけてくるな。近づいてくるな」と念を押されたばかりだった。念を押してきたからには、当然嶋本から俺に話しかけてくることはないし、きっと避けられる。二学期に入ってからは見事に避けられている。こちらから会いに行こうにも、会えたためしがない。それが、今後強化される。
ならば、嶋本とまともに顔を合わせられるのは今日が最後かもしれない。
キス、してしまえば良かった。
