高校生 6
喫茶店を後にするとき、マスターに言われた。
「明日また昼過ぎにおいで」
塾で授業がないため、はい、と答えた。たまには家と塾以外で勉強するのも悪くない。
しかしマスターは俺に勉強する場所を提供したつもりではないことが すぐに判明した。
2時過ぎに喫茶店に訪れると、「いらっしゃい。良い時に来たね」と言われた。手招きされてカウンターに行くと、ジュースとおしぼりが二つずつ乗せられたトレンチを渡された。
「来てるんですか?」
聞くと、マスターは主語がなくとも理解して答えてくれた。
「来てるよ」
「昨日の今日で?」
「あの子はそゆとこ読んで動くから。ほら、いってらっしゃい」
そして、昨日の部屋へ通された。
扉をそろりと開ける。嶋本は昨日と同じソファーで本を読みふけって、ちらりともこちらを見ない。読書の邪魔をしてしまわぬよう、そろりと入って、ジュースとおしぼりもそろりとテーブルに置いた。嶋本は本から顔を上げず、ジュースだけちらりと見て「いいのに」と言った。
「持たされた」
答えると、嶋本は心底驚いた様子で顔を上げた。いつもの鋭い視線も、拒絶の言葉もなかった。目を真ん丸に開いて、時間が止まったようだった。
しかしすぐに我に帰り、嶋本は本を閉じて立ち上がろうとした。
「邪魔はしない」
「……」
「マスターに言われるがままに来た。今日は勉強しにここに来た」
「わざわざ?」
「うん」
「あっそ」
嶋本は再び本を読み始めた。
本当は話をしたいが、今の様子だと話をしようとすれば昨日のように帰られてしまう。そうなれば、次こそ嶋本と夏休み中に会うことはかなわなくなるだろう。このチャンスを逃してはいけない。
夏休みの宿題を始める。室内は静まり返り、蝉の鳴き声が響き渡る。時折本のページをめくる音が聴こえる。極稀にジュースを飲む気配と、体勢を変える衣擦れがする。
心地よい、安心できる空間だ。
どれくらい経っただろうか。近くで、ズズズズ、とジュースをすする音がした。プリントから顔を上げると、嶋本が覗きこんでいた。
「わり」
「いや……」
「ややこしそ」
「他人事だな」
「特クラと同じ宿題が出てたまるかよ」
嶋本は6組だから、理系普通クラス、俺は8組の理系特進クラス。
しかし今の発言。
「俺のこと知ってるのか」
これまで、嶋本にはただただ煙たがられているのかと思っていた。
「お前有名人じゃん」
「そうなのか?」
「そ。で、俺も有名人。だから目立つわけ」
「目立つ?」
「有名人が二人揃うと、それだけで目立つわけ。だから俺に近付くなよ」
珍しく嶋本から話をしてくれたと思えば、やはり拒絶の言葉だった。
「帰るわ。お前もちっと残ってけよ」
「……それは、誰かに見られたら嫌だから?」
「さすが特クラは話が早いね」
言って嶋本は立ち上がる。このまま帰らせてはいけない。慌てて聞いた。
「また来ても良いか?」
「知らね。俺ん家じゃねぇし。マスターに聞けば?」
「次はいつ来る?」
「さあね」
嶋本はこちらを全く見ずに部屋から出ていった。
「いつでもおいで。月曜は定休日だから無理だけど」
マスターは言った。しかし土日はきっと忙しいだろうからよした方が良いだろう。月水金は塾があるから、来れても火木だけだ。1ヶ月で8回。甘えすぎだろうか。しかし、可能性を削ることもしたくない。三度喫茶店を訪れる時、親にやたら大きな菓子折りを持たされた。
「あー、返って申し訳無いね」
オーナーはスキンヘッドをなでながら言った。
この日嶋本は来なかった。もちろん、だからもう来ないなんてつもりはさらさら無かったが、帰りにオーナーに言われた。
「遠慮せずまたおいで」
親にはこの喫茶店のことを伝えてある。電話でもして、何か話がなされたのだろう。そうであれば、ジュースをタダでもらってばかりの後ろめたさが多少和らぐ。ありがたいフォローだ。
次に訪れた時、奥の部屋には既に嶋本がいた。嶋本はもう驚いたような顔はせず、いつもの嫌そうな顔になった。そしてすぐさま呼んでいた本を閉じ立ち上がった。
「邪魔しない」
「知ってる」
いつもより棘を感じる言い方だった。嶋本は本をテーブルに置いて部屋を出た。戻ってくる意思表示であればいい。
そんなことを考えつつ、鞄から宿題と筆箱を出す。プリントを広げたところで、嶋本は早くも戻ってきた。その手には、ジュースとお菓子が乗ったトレンチがある。
「ありがとう」
「ついでに運ばされただけだ」
やはりいつもより棘のある言い方で、しかしグラスとお菓子を置く手つきは静かなものだ。
「なんで不良なんだ?」
本当の嶋本は優しいし賢いに違いない。そう思ったら、言ってしまった。
「は? 喧嘩売ってんの?」
嶋本の普段から吊り上がってる眉が、いっそう吊り上がる。
「気に障ったなら謝る。そんなつもりで言ったんじゃない」
「お前まじもう喋んな」
嶋本はジュースを一気に飲み干すと、本を手に取り、背もたれ側を向いて横になった。
態度でまで拒絶されてしまった。
嶋本の背中を眺めて途方に暮れる。もしかしたら、今日を最後にもう来なくなるかもしれない。
それは寂しい。
いや、そんなことは問題ではない。嶋本の場所を奪ってしまうことになるかもしれない。そちらの方が問題だ。
「すまん。帰る」
「勝手にしたらいいけど、出されたもん残すんじゃねーぞ」
「……ああ、そうだな」
俺は片付けをしようとしていた手を止めた。
しかし、ジュースを一気に飲める程腹はすいていない。二口飲んでみて、やはりすぐに帰ることは諦めた。
嶋本はすぐに平らげて帰れとは急かさなかった。嶋本はずっと背もたれ側を向いて横になったままだった。
ジュースを飲み干しお菓子を平らげると、宣言通り帰ることにした。
「また来て良いか?」
「前知らねっつたろ」
「嶋本はまた来るか?」
「さあな」
「じゃあ」
「……」
最後は無視されたが、二つの質問の答えは前回と同じだ。きっと嶋本はこれからもこの喫茶店を訪れる。後ろ髪を引かれるが、ジュースとお菓子のおかげで多少長居できたので良しとしよう。
