一緒に 8
真田さんの世界に入れてもらえないまま。
恐怖していればいい、の意味を教えてもらえないまま。
季節は、夏になった。
あれから、俺のしたことと言えば、ひたすら勉強だ。教えてもらえないのだ。自分でわかるようになるしかない。
毎日毎日、来る日も来る日も、勉強をした。ごく稀に、夢の中でまで勉強していて。目覚めてみれば、決まって頭痛に襲われる。そんな日は全く身に付かないので、潔く気分転換する。
嬉しい誤算だったのは、知識があると、その分だけ多くの疑問が浮かぶということ。その分だけ多く新たなことに気付く事ができるということ。つまり、勉強がしやすくなるのだ。しばらくは勉強の種に事欠かなかった。
勤務中は事ある毎に真田さんを観察した。真田さんの訓練や現場での一見するとよくわからない行動も、知識が増えるにつれ、意図がわかるようになってきた。デスクワーク時のことは流石にさっぱりわからないが、パソコンを使う際は飲み物をペットボトル飲料に変えていることにはすぐ気付いた。倒してしまった時の配慮だろう。コップは倒してしまえば中身がこぼれるが、ペットボトルならばふたが閉まっていれば零れない。
きょろきょろしとる。
さっき消しゴム落としたん、気付いてないんやな。
言うてもええけど……
「消しゴムなら、はい」
ああ、と顔を上げた真田さんの表情は、普段どおり。出された手に、心持ち雑に消しゴムを乗せる。触れた手は、冷房のせいだろう、冷え切っている。
「俺、お茶入れてきますけど、いりますか」
「すまない」
伏目がちにそう言う真田さんは、なんだか他の事を謝っているように見える。
……ありがとうとは言ってくれへんか。
ふぅ、とこっそりひとつ息を吐いて。皆にも聞く。
「皆さん、お茶、いりますかー?」
「おう」
「頼む」
「なんだ、めずらしいな」とは、黒岩隊長だ。
黒岩隊長は確か……
「氷ようけ?」
「ああ、キンッキンに冷えたの頼む」
「いっつもいっつも冷たいのん飲んで、いつか体調くずしますよ」
言い捨てて給湯室へ。
真田さんには熱いの。
お茶っ葉、お茶っ葉。あった、煎茶。
最近テレビで見た、お茶の入れ方を思い出す。煎茶は確か……まず、急須を温める。
急須にポットのお湯を入れて。……どれくらいで温まったっけ。まあ、他の入れてる間に温まるやろ。
三人分の麦茶を入れる。黒岩隊長の分は特大コップで氷をたくさん。
したら次は、急須のお湯を捨てて、茶葉を入れる。湯飲みにお湯を入れて、そのお湯を急須に移す。で、一分蒸らす。美味しく入れるコツは、この時に急須をゆすらない事。つまり放置。この間に麦茶を持っていく。
「はい、どうぞ」
「お、ありがとう」
「はい、どうぞ」
「悪いな」
「いやいや、全然」
「こら嶋本! 隊長様が最後とはどういうことだ!」
「今行きますー。ったく。……はい」
「うん」
黒岩隊長は満足そうに頷くと、その場で一気に飲み干した。
「っかー! 美味い! 美味いが、これっぽっちか!! だいたいなんでこんなに氷入れてんだYO!」
「あんたが氷ようけ言うたからでしょうが! おかわりで良いですね!」
コップをぶんどって振り返ると、皆がこちらを見ていた。ニヤニヤしている皆に混じって、真田さんだけは複雑そうな表情をしている。
……何、その顔。
「いつか絶対パワハラで訴えたる!」
怒鳴って給湯室に戻る。多分、一分を少し過ぎたくらいだ。自分の分と、真田さんの分。少しずつ湯飲みについでゆく。濃さを均等に。最後の一滴まで余さず入れて、香りを逃さない。
特大コップには麦茶だけをつぎ足して、いざ、給湯室を出る。
真っ先に黒岩隊長のもとへ。はい、と麦茶が零れない程度に雑に差し出す。
「よしよし、一番に持ってきたな」
と、頭へ伸びてきた手を振り払い、真田さんのもとへ。
デスクへ湯飲みを置くと、真田さんは僅かに目を見開いてこちらを見た。
「熱いので気を付けて下さい」
言えば、真田さんは「うん」と頷いて慎重に湯飲みを口へ運んだ。二度息を吹きかけると、ずずとすすった。
「はぁ」と肩から息を吐く。どうやら、なんだかリラックスしたらしい。
「新茶か何かか?」
「いいえ、いつものお茶です」
「そうなのか」
「へぇ、入れ方一つで結構変わるもんなんですね」
「美味い」
「……そら良かった」
自分のデスクに戻る。トレンチはどうせコップを片付ける時に必要になるだろうから、そのまま持っておく。
こっそり真田さんを窺えば、湯飲みを両手で弄んでいる。
おお、これは狙い以上の反応。
たかがお茶一つで、珍しい真田さんをたくさん見れたような気がする。
いや、厳密には、懐かしい。
どの表情も、珍しいものには違いない。しかし、これまでに見た事のある表情ではある。それが、とんと見られなくなったのは、『そのままの意味』を食い下がって問いただしてからだ。
……俺はお茶以下か。
それとも、警戒が解けてきているのか。
後者だと良い。
このまま警戒が解けきって、以前のように、以前以上に、軽口を叩けるようになれたら良い。
少し気分が良くなったところで飲んだお茶は、確かに、いつものお茶より美味い気がした。
